クッションカバーから着想した“究極の家”。スペックに頼らずに必然性を追求
一着のコートを着用者にとっての“家”と見立てる――。そんな発想をするブランドが存在したことをご存知だろうか。ブランド名は『FINAL HOME(ファイナルホーム)』。その名のとおり着用者にとっての“究極の家”を目指して作られたコート「HOME1」は今も色褪せない同ブランドの代表作だ。
「実は最初は『FINAL HOME』はブランドではなかったんです。イッセイミヤケ在籍時にファッションショーを個人的に開催した時のコレクションの1ピースの名前が“FINAL HOME”でした。そのアイテムを量産する際、アイテム名をそのままブランド化したという経緯になります。コレクションのその他のアイテムは一点物のアートピースに近いものばかりだったので、量産が難しかったという理由も大きいのですが(笑)」
「当時、一生さんにこういうコレクションをやりたいと相談したら『じゃあパリのいい場所を知っているからやってみれば?』という感じでOKしてもらったんですよ。普通だったらあり得ないですよね。ビジネスとして成立するかどうか分からないような表現でしたから。イッセイミヤケというコレクショングループの若手として、いずれはクリエイションにも影響するだろうと判断されて許してもらったんだと思います」
90年代初頭は映画「ブレードランナー」や漫画「AKIRA」で描かれるディストピア的な空気感が色濃く漂っていたと当時を振り返る津村氏。既存のスタイルが壊れていくような時代のムードに反応した若者のうちのひとりだったそうだ。
「当時僕が考えたのは『もし人類の多くが核戦争や災害で死滅してしまったら、地下に潜って生き延びた残りの人類は地上に出た時にどんな服を必要とするんだろう?』という問いでした。プラスティックやポリエステル、ナイロンなどのケミカルな素材は土に還らずに残りますよね。彼らはそういう素材を使って服を作るんじゃないかと仮説を立てました。それらに熱加工をしたり、ダメージを与えてみたりしてルックを作りパリでコレクションをやったのが1994年です」
そのコレクションで披露されたのが前述のHOME1だ。そのアイデアが生まれたきっかけは何気なく部屋で寝転がっていた時、ふと目に入った身近なものに由来している。
「ソファに置くクッションがあるじゃないですか。そのクッションの中身を抜いて、カバーだけを繋ぎ合わせて服にしたら面白いんじゃないかと思ったのがHOME1が生まれたきっかけです。ただ服作りとしては、あの四角いカバーそのものをいくつも繋ぎ合わせるのはすごく非効率。表地と裏地の間をステッチで均等に分割したスペースをひとつのクッションカバーとして捉えれば、量産品として効率的に作れるだろうと思ったんです」
現代のアウターは表地と裏地の間にダウンやポリエステルを封入して防寒性を確保することが多いが、HOME1はあえてそのスペースを空洞にすることで持ち主の自由な使い方を促す一着だ。表地や中綿のスペックを追求するアウトドアブランドのアウターとは真逆の発想と言っていいだろう。
「アウトドアウェアのディテールは特定の用途のために存在するので、こう使うべきというルールが明確にありますよね。いわばデザイナー側が使い方の主導権を握っているのに対して、FINAL HOMEの場合は使う側が使い方をデザインしているとも言えます。そもそも僕が作る服はスペックがあるようでいて実はないんですよ。あの無数のポケットもそう使いたいと思う人が、何かを入れた時に初めてポケットとして成立するんです」
災害や戦争によって人々の身体や精神が脅かされる状況は残念ながら今も変わらない。経済に目を向ければ、住居を失うことに繋がる失業も多くの人にとって現実味を帯びたリスクのひとつだ。自らを守る最後の砦としての『FINAL HOME』という構想は今も普遍性を備えている。そんな未来のことを当時の津村氏はどうイメージしていたのだろうか
「通常はファッションとして使える一方、いざという時はサバイバルウェアになる一着を形にできれば、震災が多い日本発のプロダクトとしての必然性は十分あると考えました。さらにこの服の機能を最も活かして使えるのは誰かと考えると、ホームレスの方かなとも思っていましたね。彼らは保温性という要素が誰よりも必要ですし、身の回りのものをすべて持ち歩かなくてはいけないと。まずはできるだけ低価格でHOME1を作って世に普及させれば、古着屋やリサイクルショップで手放す人の量も増える。それらをボランティア団体などが集めてホームレスの方に配るようなストーリーも描いていました」
新しい服作りの可能性。“上手く作れない自分”とどう向き合うか?
ファッションの領域に限らず、モノ作りを高いレベルで継続させていくことは難しい。スタート時に独創的なコンセプトを形にすることに成功した『FINAL HOME』だからこそ、次のハードルも高かったはずだ。ブランドという形で続けた時期を「やはり難しい部分はあった」と津村氏は振り返る。
「いくら画期的なものでも毎回同じものがリリースされていたらやっぱり飽きられますよね。結局、目先の違うアイテムを出していくという方法論を取らざるを得なかった。要するになかなかHOME1を超えられないんですよ。もちろんデザイナーなので、柄を取り入れたり、生地を変えたりしてアレンジする技術はあります。ただやればやるほど、何だか普通のファッションになっていってしまう難しさはありましたね」
『FINAL HOME』だけでなく、イッセイミヤケ在籍時からファッションとアートが交わる領域を長年にわたり模索してきた津村氏。今はどんなモノ作りの手法に可能性を感じているのだろうか。
「モノ作りの最初においては、誰でも必ず“上手くできない自分”に直面せざるを得ない訳じゃないですか。そこでただ上手くなろうとするだけじゃなくて、上手くできないなら別の方法がないかを考えることも必要だと思います。例えば、縫わないで何か服ができないか、描かないで絵ができないか、みたいな発想です。僕はモノを作る前にまずそんなことを考えるんですよ」
服作りが上達することは既存の衣服のルールに縛られることでもあると津村氏は話す。美大の教壇に立つ中で、若い世代に接する機会が多くなり実感したことでもあるようだ。
「例えば服を作ったことがない学生は上手い下手を問わず、ただ縫うだけでも大変なんですよ。もし手応えがなくて嫌になってしまうくらいなら『縫わなくても済むような簡単な作り方を考えればいいんじゃない?』と。3Dプリンターを活用すれば機械がやってくれるし、ホールガーメントもニッティングシステムがあれば可能です。あるいは縫わずに接着剤で作れるかもしれない。いずれは紙で工作するように服作りをする世代が出てきてもいい。そういう可能性は常に想像していますね」
自身の作品を振り返った上で、新しいモノ作りの具体例として挙げてくれたのが「PAZZLE WARE」。文字どおりパズルのような発想を形にしたシリーズだ。突起とスリットを組み合わせてデザインされたパーツを使ってドレスやモニュメント、タペストリーなど多様な形態を表現できる。
「ユニットパーツを組み合わせて衣服にする発想は他でもあると思いますが、一般的にはユニットを嵌めた際の突起物をあまり見せたくないらしく、その部分を裏にするんですよ。僕はパーツがぶつかり合って浮いてしまう部分をあえて表にしています。ある意味ではそれも一種のデコレーションなんですけど、立体的な構造がちゃんと見えるのがいいなと」
「あとは服が作れない人や子どもでも遊びながら何かが作れる。遊んでいくうちに変わった形が自然と出来上がる面白さがあるんです。僕はあくまでユニットパーツをデザインするだけなので、最終的な組み合わせ次第でみんながデザイナーになれると。それは面白いなと思ってやっています。機会があればまた形を変えて発表したいですね」