パフォーマンスで得た知見をライフスタイルへ。“スポーツスタイル”誕生の経緯
前述のアーカイブルームにて、1990年に発表された“ゲルライトⅢ”の説明を受けている時に飛び出した言葉のひとつがプロネーション(※1)。非ランナーにとってはなかなか聞き慣れない単語だが、実際の一足を目の前にすれば大まかな理解はできる。30年以上前にリリースされたモデルながら、アシックスの現在のランニングモデルに通ずる基本的な設計は十分にされているという。
「プロネーションやクッショニングなどのケアすべきポイントは現在のシューズ作りでも共通しています。その当時は内側に硬いスタビライザーを入れて倒れ込みを防いでいました。今はもっと違うアプローチをしていますけどね。僕らが今手がけているスポーツスタイルのシューズもデザインだけを気にするのではなく、アシックスの製品としてそういったファンクション部分の機能的な設計は常に行っています」
(※1)プロネーション:着地の衝撃を分散するために、着地時にかかとが内側に倒れ込むように動く人体の自然な動き
現在のアシックスでは、ランニングや他スポーツに向けてのアイテム群を“パフォーマンス”、一般的なライフスタイルに向けて提案するアイテム群を“スポーツスタイル”として区分している。“スポーツスタイル”の根幹にあるのは、パフォーマンス用のアイテムを開発することで得た知見をライフスタイルの領域に還元することだ。2019年に新設されたそのカテゴリーはどのような経緯で誕生したのだろうか。
「僕はパフォーマンスの部門でずっとデザインをしていたのですが、別のアシックスタイガーというライフスタイルの部門のデザイナー仲間と『この2つの部門のシューズが融合したらきっと面白いものができるよね』という話を昔からよくしていたんです。時代の流れとしても、パフォーマンス用のシューズとファッションのシューズの境目がなくなりつつある流れが強まった2019年のタイミングでスポーツスタイルという部署が立ち上がりました」
消えつつあるスポーツとファッションの垣根。2010年付近のパフォーマンスモデルが人気
新カテゴリー立ち上げの背景には、上田さんを始めとするデザイナー陣の予感とも言えるアイデア、さらに時代の変化が重なったことが挙げられるようだ。興味深いのは、スニーカー好きを中心にすでにファッションとして取り入れている“ゲルライト 3”などに加え、2010年付近のパフォーマンスモデルの代表例である“ゲルカヤノ 14”などを求める熱が今高まりを見せていることだ。
「10年ほど前までだったら、感度の高い人がいわゆるハズシでパフォーマンス用のシューズを履くような感覚が今では当たり前になってきたのだと思います。数年前、ヨーロッパのほうでギラっとした質感のシルバーのランニングモデルをファッションとして取り入れるスタイルがトレンドとして生まれてきました。その波がヨーロッパからアメリカやアジアに流れてきて、日本でも昨年くらいからアシックスのそういったテイストのモデルの認知度は上がってきています」
一部の地域のトレンドが拡散されて世界的なトレンドになるまでのスピード感は、SNSが普及した2010年代後半以降に生まれたとも言える。従来はアメリカやヨーロッパ、アジアの地域でそれぞれ異なっていたニーズが均質化する面も出てきているという。
「各地域で何が起こっているか、何がいち早く世界トレンドとして主流になるかに常に注視しています。先ほどの話と繋げると、以前はオールブラックやオールホワイトで統一するカラーリングがファッション的な主流でしたが、僕らはアシックスの資産のひとつであるホワイト×シルバーのアイコニックなカラーリングに機会を見出したんです。ヨーロッパでの新たなニーズに対して、僕らの資産を使って何ができるかを考えた結果トレンドをリードすることができたのかなと。 時代の変化を読み解きながら、自分たちのオリジナリティをいかに発揮できるかをいつも考えています」
キコ・コスタディノフと組んで得た“再構築”。「協業は今の世を理解する手がかりになる」
スポーツスタイルのシューズの中には過去のアーカイブを参照しながらデザインされているものが多いが、最終的なプロダクトが単なる復刻に留まることはない。それは同カテゴリーがスポーツのシーンだけでなく、あらゆる人の日常を機能面からサポートする意図があるからだ。
「現代の日常生活を想定して、走るために作られた当時の仕様や材料選定の再設計を常に行なっています。より歩行する際の人体の動きに着目して、細部に至るまでもう一度デザイン設計をし直すと。必要な機能は残しつつ、再設計するべき機能については調整を行うイメージですね。例えば、先ほどお話ししたオーバープロネーションという内側への脚の倒れ込みを防ぐために、ランニングシーンにおいて当時は一部に硬い材料を使用していましたが、日常生活での歩行においてはもっと適切なものに調整しながら設計し直す必要があるんです」
そのシューズにパフォーマンスを発揮するベースがなければ、ファッション的な提案もできない。その姿勢を頑なに貫いているからこそ、アシックスは多くのブランドやショップから信頼されているのだろう。そのパートナーの中でも特別な存在のひとりがキコ・コスタディノフだ。
「これまでに異なるモデルのアッパーとソールを組み合わせることは僕らも行ったことがありますが、アーカイブのいろいろなデザイン要素を自由にミックスして再構築するやり方は彼が示してくれた手法です。自社の強みやアイコニックな部分を組み合わせることで、これまでに存在しなかった新しいものが作れるという発想ですね。アシックスには強い資産と言えるアーカイブがあるからこそ、こういうデザインのやり方ができるんだと。彼と協業したことで、ファッションの先端の部分に初めて手が触れられたような感覚がありました」
「ある意味で彼は僕らに自信を持たせてくれたんです。彼がよく言うのは他社の真似をするな、アシックスのいい部分をさらにブラッシュアップして新しいものを作ろうと。日頃感じるのはアシックスに対する彼の理解や愛情の深さです。彼はリサーチ力がすごく高いので、ミュージアムに保管してあるモデル以外のところからネタを引っ張り出してくることもよくあります。下手すると僕らよりアシックスのプロダクトを見ていたりしますね(笑)。プロダクトを形にしていく上で、ブランドとしてのオリジナリティに向き合う力はやっぱりすごいなと」
もちろん、他のパートナーと協業することで得るフィードバックも多いそうだ。そもそも協業する意義の前提にあるのは、自分たちにない視点を持っていることだと上田さんは話す。
「僕らにとってのコラボレーションは決して広く世に知られるためだけではなく、外部のクリエイターの視点や強みを吸収する意図があるんです。完成したプロダクトはアウトプットであると同時に、僕らにとってはインプットでもある。それぞれのパートナーさんの『こういうものを作りたいんだ』という意向は今の世の中を理解するための貴重な手がかりのひとつだと思っています。ここ2、3年でいろいろなパートナーさんと関わることで僕らの地力も付いてきたかなと。以前はコラボレーションしたモデルだけが注目されることが多かったのですが、インラインのモデルに注目してもらえるようになったのは最近の大きな変化ですね」
目指すのはファッションだけにあらず。アクティブなライフスタイルのサポート役として
日本では多くの人が学生時代に部活などで履いてきた経緯があるせいで、“運動靴”というイメージ以外で捉えにくい面があったアシックス。一方で、そんな文化的背景がない海外ではずっと以前から“アシックスはクールなブランド”だったのかもしれない。とはいえ逆説的だが、ファッションの領域で存在感を示すことだけを目指していたら、今の状況には至っていなかっただろうと上田さんは振り返る。
「国内のライフスタイルカテゴリーでも“部活のイメージが強いアシックス”というより、”最近イケてるらしいアシックス”という形容の仕方で声をかけていただける機会はすごく増えました。5年前から考えると想像もつかなかったなと(笑)。もちろん今の状況はうれしいし喜ばしいこと。ただ、このためにやってきたという言い方は少し違うのかもしれません。ファッションとスポーツの垣根がなくなりつつあるとはいえ、作る際の出発点はまるで違います。あくまで、これまで積み上げてきたものが加速して今があるというところなんです」
「最近よく比べられる機会があるのですが、ナイキさん、アディダスさん、ニューバランスさんなどの各社がいる中で、それぞれの強みも歴史も全く違います。やろうとしていることのアプローチも背景も違うので、比べようがないんですよね。結局、僕たちがやろうとしてきたことは『スポーツで培ったアシックスの強みを通して、人々に何ができるのか』ということに尽きるんです。スポーツは決して日常から遠いものではありません。手に取っていただいたすべてのお客さんのライフスタイルが少しでもアクティブになって、気持ちをアップリフトすることができればなと思います」