最初は「おこがましい」と思っていた「ホテル南水」の継承
井口さんが高知に来たのは、今から約8年前。高知駅付近にあるビジネスホテル・ホテル港屋の事業を継ぐためだった。「僕はもともと高知出身ではなくて。そんな僕が高知に来て思ったのは、人が本当にあたたかく、自然が豊かなことでした。他の観光地に比べると、立地やアクセスという観点では決して優れているわけではありませんが、坂本龍馬ゆかりの地であるという特性も踏まえると、高知には観光需要のポテンシャルが非常にあると感じていました」と井口さんは振り返る。

統括マネージャーの井口将貴さん
高知の観光地としての可能性を見出していた井口さんが、港屋の今後の成長のため、新規事業を模索する中で経営することになったのが、2022年に惜しまれながらも閉館した「ホテル南水」だった。
「実は高知にルーツのない僕が『南水』を継ぎたい、と言うのはおこがましいかな、と当初は思っていたんです。ただ、高知では坂本龍馬は欠かせない存在となっている中で、龍馬の生家跡地とされている『南水』がクローズしてしまうのは非常に残念なことでした。また、当時はコロナ禍もあり、宿としての『南水』を受け継ごうという人もあまりいない状態で、跡地には病院やマンションといった施設を建てる計画が出ていました。そこで、宿として『南水』を復活させていきたいという考えのもと、僕が受け継ごうと決心しました。ホテルの経営をしてはいますが、個人的には高知の重要人物である龍馬が生まれたこの土地を預からせていただいている、といった感覚が強いです」と井口さんは経緯を明かす。
2つの役割を果たすために設計されたコンセプト
事業を受け継いだ井口さんを中心とするプロジェクトメンバーの旗振りのもと、「ホテル南水」は”自分を洗濯する旅”をコンセプトにしたラグジュアリーホテルであるhotel nansuiとして生まれ変わった。
「nansuiには2つの役割があると思っています。1つは坂本龍馬のファンとして、生家跡地であるnansuiに来てくれたお客様を絶対にがっかりさせないことです。以前は施設が古くなるにつれて、宿泊いただいたファンの方から『ちょっと古くてがっかりした』といった声があったことが背景にあります」。
「もう一つが、高知にはまだ少ない『ここに泊まってみたい』と龍馬ファン以外の方にも思ってもらえるような、洗練されたホテルを作ることです。その両方の役割を担わせるため、当初考えていた”坂本龍馬に思いを馳せるホテル”というコンセプトから、高知の魅力を引き出せるような方向性に徐々に拡張していき、今のコンセプトに行き着きました。少しでも龍馬の考えなどに触れることで、新しい自分になって欲しいという思いが建物の内装や料理など、あらゆるところに込められています」と井口さん。
ホテルの1階には宿泊者でなくても入れる”PUBLIC”の場として、坂本龍馬にまつわるアートピースを配置したスペースと、地元のクラフトビールなどを楽しめるフリースペース、オキャクバを配置。
2〜6階を客室からなる”PRIVATE”の場とし、エントランスやバーを構える7階と、ドリンクを片手に高知の街を一望できるテラスがある8階を龍馬が生まれた街の風景とつながる”COMMON”の場としてホテルを設計した。
ファサードには坂本家の家紋をベースにした幾何学文様が使われていたり、客室エントランスには近年発見された龍馬の手紙から抜き出した一文字をあしらったりと、坂本龍馬のエッセンスを感じられるようなデザインが至るところに散りばめられている。
「高知市内には、県立の坂本龍馬記念館と市立の坂本龍馬の生まれたまち記念館の2つがあり、龍馬の情報が網羅されています。その中でnansuiでは直接的な表現は避けつつ、多くの人にそれぞれの龍馬にひたってもらいたいという考えのもと、内装のデザインを選定していきました」と井口さんは説明する。
ホテルの世界観を作り上げるためのユニフォーム
坂本龍馬を軸に、コンセプトや内装など、随所に趣向を凝らしているhotel nansuiのユニフォームは、シタテル社が制作したものだ。「通常のホテルのユニフォームはスタッフを黒子化させるような役割を担っていると思います。しかし、nansuiの制服は、ホテルの世界観を形作るようなものにしたいと考えていました。比較するのは恐れ多いですが、ディズニーのキャストの制服と考え方が近いかもしれません」と井口さんは語る。
デザインの考え方のポイントとなったのは、坂本龍馬のスタイルだったという。「龍馬は袴にブーツを合わせたり、剣術の達人でありながら拳銃を身につけたりと、海外の文化を積極的に取り入れ、新しい考え方を当時の日本に持ち込んだ人物だと個人的には思っています。そのスタイルをユニフォームにも取り入れたいという考えがありました。シタテルさんも僕らの考えをスピーディに理解してくれたので、制作はスムーズに進みました」と井口さんは話す。
そうして仕上がったユニフォームのデザインに対して、スタッフからは「今までのホテルで見たことのないデザインだ」という声もあったそうだが、「今ではホテルにも、スタッフにも馴染んできています」と井口さん。「ユニフォームはホテルの世界観の1つという考え方の中で、違和感なく溶け込めているのは当初の考え方に近しい姿になっているのかなと考えています」。
「まだ完成していない」。hotel nansuiが見据える未来
しかし、ホテルを運営する中で課題も見えてきたようだ。「一定以上の評価はいただいている一方で、nansuiはまだ完成はしていないと思っています。龍馬ファンの方の中でもまだまだnansuiを知らない方もいらっしゃいますし、実際に来ていただいた方にも、もっと楽しんでもらうために何か工夫する余地はないのか、ということは常に考えています」。
「また、龍馬ファンではない方にも想像以上に来ていただいているのですが、そういった方たちからは逆に『もう少し龍馬に触れたかった』という声があって。龍馬に関してはあえて抽象的に表現している部分が多いので、少し分かりづらかったのかもしれません。龍馬のことをよく知らないお客様に対するスタッフの関わり方など、より分かりやすい表現を当初のコンセプトと乖離しすぎない適切なバランス感で模索しないといけないな、と感じています。ゆくゆくは龍馬に興味がない人がnansuiに来て、少しでも関心を持てるようなような橋渡し的な存在になれると良いなと思っています」と井口さんは分析する。
最終的には「高知観光のついでにnansuiに立ち寄る」ではなく、「nansuiに行きたいから、高知に来て、観光するようなホテルになること」を目標に掲げているという。
「nansuiは街中にあるため、いわゆるリゾートホテルのようなホテルでずっと過ごすといった体験よりも、宿泊しながら高知にある色々なものを楽しむ、といった体験の方がニーズがあると考えています。そのために、1階に設けたオキャクバで地域の方々とどう関わっていくのかを模索したり、桂浜など、高知の観光スポットのご紹介をしたりして、nansuiを含めた高知での一連の旅行体験を途切れさせないようにしています。ゆくゆくはnansuiが、高知観光や高知というエリアのハブになっていけると良いな、と思っています」。
三方を四国山地に囲まれ、南は太平洋にひらけた高知県。かつては「閉ざされた土地」とも呼ばれ、情報や物流が遅れがちだったという。けれど一方で、中央の権力から距離を置けたことは、自由な発想や独立した精神を育む土壌にもなった。さらに、海運が盛んだった高知では、自然と外の世界へのまなざしも育まれていた。
坂本龍馬は、そんな土地から生まれた。
海援隊の設立、薩長同盟の仲介、大政奉還の提唱——。その独創的な行動力の根底には、高知という風土が息づいているように思える。
彼の生家跡地に立つhotel nansuiにも、この地が育んだ個性が感じられた。
煌びやかなラグジュアリーホテルではない。
雄大な自然や温泉があるわけでもない。
SNS映えするアクティビティもない。
でも、そんな余白の多い場所だからこそ、hotel nansui には、静かで上質な時間が流れている。
四国山地と太平洋に包まれた高知の地で、静かに自分と向き合う。
どこか瞑想にも似た“洗濯”の旅。
それこそが、高知が提案する日本の贅沢のひとつのかたちなのかもしれない。